50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

稽古日記 210 2020/10/24

家の都合やら腰痛やらで何週間ぶりかの稽古。

 

●上段からの素振りが当たるようになった。また、避けられるようになった。

基本中の基本なれど、左手の握りをできる限り柔らかくして、足裏で切先を支え、ただ切先を意識して、柔らかさを保ったまま切先を走らせることに集中し、剣を振らず、相手の胸元に気を送るのみ。この剣を振らずに気を送るのみというのが、なかなか出来ない。

目付は、今まで相手の目または鼻を見ていたのだが、相手の胸元をぼんやり見るように変えた。注視しては囚われる。ぼんやり遊ばせると、気配が感じられる気がする。視覚というより、触覚に近いのかもしれない。とは言え、打率はまだ低い。

 

●「気を送るのみ」と先に書いたが、これが掴みどころなく、説明に困る。オカルトではない。況や精神論や気構えではない。極めて実践的、且つテクニカルなイシュー(論点)なのだ。

「気」とはこの場合、取り敢えず「意思」とでも理解すればよい。切るという意思を相手の胸元に放射する。その気に導かれて、剣が走る。繰り返すが、精神論でも比喩でもない。剣を振る、即物的な技術論なのだ。

比喩でいうと、自動車を運転する際、カーブは目(視線)で曲がる。上級になれば、アクセルも付け加える。よほど低速のクランクとか車庫入れ以外は、ステアリングをどう切るかなど考えない。これを上記に当てはめれば、ステアリングを切るが剣を振るに当たるわけだが、つまり要諦はカーブの最奥に気を送るという表現になる。

能書を垂れるのは簡単だが、実際に行うのはとても難しい。気を溜めれば、身体にタメが生まれる。或いは、余計な身体の動きが生ずる。剣を走らせる前に悟られてしまう。これから行きますと行儀よく挨拶してから剣を振ったら、避けられてしまうのは当然のこと。「兵は詭道なり」とは孫子の言であるが、私もそう思う。

 

これ以外にも気の付いたことはあるのだが、疲れた。

腰の具合が今一つで、大丈夫かと危ぶんだのだが、行って良かった。家で少しづつ行った、素振りの稽古の結果が出たのは素直に嬉しい。問題は、この感覚を次回まで覚えていてくれるかどうか。

来週は、会場の都合で休会。