50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

稽古日記 111 2012.03.24

時間が迅い。前から感じていたけど、最近、急加速した気がする。2晩か3晩か寝たらもう週末になっている。
そう言えば、筒井康隆の昔の短編にそんなのがあった。確か最期は、自分以外が殆ど静止してしまった風景の中で、ちょっとした事故で車に轢かれ、超スローモーションでタイヤに巻き込まれていくという結末だった。

合気道 いろいろ。
「一致」がかねてよりの課題。こんな感じなのだろうと、ぼんやり想像はつくのだけれど、いざ相対すると白紙になる。

合気道同好会の学生さんが参加。何と言うか、呆れる位簡単に技が掛かる。技を掛けられたくって尻尾を振ってるみたいに、自分から技に乗っかってしまう。何度も「本当に掛かっているの?」と尋ねてしまった。私の実力で、そんなに面白いほど掛かる訳が無い。

剣術 切落としのまとめ。
今まで色々な角度から取り組んできて、それを一つに統合する段階と云う事なのか。

ある動作について、先生の説明は本筋として、それとは全く別の角度から捉えられた時、得心が得られる(ことがある)。
例えば、中心に剣を立てて、そこに身を入れることができれば、斬られることはないと何度も教えられる。確かにその通り。されど、これには話の続きがある。そして大事なのは、この後に続く部分なのだ。
切落としで、この技の際、伸び上がって剣を振っているように見えることがある。それは、相手の剣を迎撃に行っているせいだと思う。意識だけでなく、目も剣を見ているかもしれない。これでは剣は落ちない。
相手の剣を見てはいけない。言わずもがなの原則ではある。されど、これが難しい。一方、直截に相手の中心に剣と体を入れていくことを求められる。
ここに於いて、相手を切ることと、自分の身を守ることを媒介するものとして、剣を中心に立てるという教えが生きてくる。
相手の剣から身を守るとは、如何に正確に中心に剣を立てるか、そこに身を入れるかという課題なのであって、相手の剣の速さや軌跡に対処することではない。
逆から言えば、相手がどのように斬って来ようが、それには関わり無く、中心に剣を立てられさえすればそれで守れるのだ。
回りくどい言い方は重々承知しているが、相手の剣から身を守るという課題は、ここに於いて、自分が如何に速く正確に中心に剣を立てるか(そしてそこに身を入れるか)という課題に「変換」されている。その一つの結果として、相手の剣を見る必要はなくなっているのである。