50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

稽古日記 66 2010.09.04

先週ふと思ったこと、気の絶対量。
そう言えば先生は気について、高速回転しつつ静止するが如くに直立する独楽の譬えを引いておられた。
回転が落ちれば、ぶれて揺れ始める。回転が落ちるとは、保持する気の量が減って足りなくなるということかもしれない。
 
という訳で、今週は、気を通し続けることを私かな課題として稽古に臨む。
稽古の前に、正座したり、或は立ったまま呼吸を整えるのは、気を蓄えるという意味があるのかもしれない。
そう言えば、先生はさかんに立禅を推奨しておられる。
理想は静かな呼吸のままに稽古し、稽古しながら気を養うことなのだろうが。
 
合氣道 小手返し他。
相手と接触している小手は、ただ相手と繋がるための接点として動かさず、相手の軸を崩すべく肩を落とす。
 
さて、何週か前はまったく手掛かりもなく掛からなかったのだが、今日は、これでいいのという位簡単に掛かってしまう。
前と異なる点は、技を掛ける前に、自分の中心軸で相手の中心軸を捉えて、気を通したまま保持し、先に触れた要領で相手を崩すこと。
相手の中心を捉えている、且つ保持しているという自覚を持てる間は、うまく行った気がする。
 
されど、合氣道の途中で気の蓄えが尽きたのか、剣術では相手を気で捉えられず、いつも通り or いつも未満の結果だった。いつもより冴えなかったかもしれない、暑さのせいか。
 
合氣道での体験のように、気で相手の中心を捉えて、且つ保持したまま、技を掛ければうまく行く気がする。
苦手な交点の維持や柄取りもできそうに思える。
気の保持量の確保はまた別の課題。
 
気などというのは、オカルトみたいで嫌だという人もいるかもしれないが、まず、オカルトでは絶対にない。
(意識を集中する)集中力と言い換えると、四捨五入して何とか言い換えられかもしれない。
が、それでは体に通じる大切なニュアンスが捨象されてしまうように思える。
気については、いずれ日を改めて。
 
居合、大東流は休み。