50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

五輪書を読む 水之巻 4 2009.03.20

前文の続き

●原文 此道にかぎつて、少しなり共、道を見ちがへ、道のまよひありては、悪道へ落つるもの也。

○私訳 兵法に限って言う。この道の習得に少しでも誤りや迷いがあれば、それは即ち悪道に落ちる事となる。心して取り組まなくてはいけない。

☆ここら辺から、言葉に凄みが出てくる気がする。
悪道とは、仏教語では、六道の内の「地獄道、餓鬼道、畜生道」の三道で、現世で悪いことをした者が死後落ちるとされる所だそうだが、慣用的にどれ程の意味合いで使われているのかは私には分からない。

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●原文 此書付ばかりを見て、兵法の道には及ぶ事にあらず。此書にかき付けたるを、我身にとつて書付くを、見るとおもはずならふとおもはず、にせ物にせずして、則ち我心より見出したる利にして、常に其身になつて、能々工夫すべし。

○私訳 この書付だけを見ても、兵法の真髄に達することなどできない。この書付は見るものでも、習うものでも、真似すべき見本でもないのだ。
私(武蔵)がここに書付けたものは、私の書付である。各自は、自分で自分のための書付を表さなくてはならない。だから、私のこの書付を見るとは思わず、習うとも思わず、真似すべき見本ともせず、自分自身で能々(よくよく)工夫しなければならない。よくよく工夫して、ここに着付けた兵法の利を自分で発見しなければならないのである。

☆かなり意訳した。余り良い事ではない。

ここで述べている事は、分かる人にはすぐ分かるし、分からない人には言葉を尽くしても分かって貰えない類の話かもしれない。

言わずもがなだが、武蔵は、(この書付を参考に留めて)我流で勝手にやれと言っている訳ではない。
「一こと一こと、一字々々にて思案すべし。大形におもひては、道のちがふ事多かるべし」である。
また「少しなり共、道を見ちがへ、道のまよひありては、悪道へ落つるもの也」と釘を刺している。

前文の始めの方で「たとひことばはつづかざるといふとも、利はおのづからきこゆべし」とあるが、それに重なる。

これで前文を終え、次回からやっと具体的な利法に入ることが出来る。