50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

五輪書を読む 水之巻 25 無念夢相の打といふ事

一 無念夢相の打といふ事

●原文 敵も打ちださんとし、我も打ちださんと思ふ時、身も打つ身になり、心もうつ心になって、手はいつとなく空より後ばやにつよく打つ事、是無念夢相とて、一大事の打也。此打たびたび出会ふ打也。能々ならひ得て鍛錬あるべき儀也。

☆兵法三十五箇条「無念夢想と云は、身を打様になして、心と太刀は残し、敵の気の間を、空よりつよくうつ、是無念夢想なり」

○私訳 敵も打とうとし、我も又打とうとする拍子(タイミング)のことである。この時、我が身は打つ態勢になっており、心も打つ気組みになった状態でぶつかり合う訳であるが、手つまり太刀は、身や心と同調しないで、自由を保ち、独自の動きをする。即ち、太刀のみが少し遅れ気味に、敵の気の隙を衝いて、虚より且つ強く打つのである。これはとても大事な打ち方で、たびたびこれを用いる場面に遭遇することになるから、よくよく習得して、鍛錬に努めるべきである。

五輪書では「無念夢相」だが、兵法三十五箇条では「無念夢想」と記している。まあ、そういう細かいことはどうでも良いのかも知れない。

色々な言葉が出てくる。「心」にしても、初出の「空」にしても、現代語のそれとは意味が異なると考えるほうが自然である。余り拡大解釈したり、膨らませたりせずに、即物的に訳したほうが良いと思う。

打つに際し、打つ心、打つ身、そして(打つ)太刀という3つが出てくる。
打つという動作を3つの領域に分け、意識に関わる領域を心という言葉で、身体や態勢に関わる領域を身で、最後に実際の太刀の振りを太刀という言葉で表していると思う。飽くまでも即物的な用語法である。

大事なことは、この3つの領域はシンクロ(同調)して常に一体のものとして動くのではなく、夫々に個別の動きをすべきとする点である。

身は先に打つ身になる。即ち、打つ態勢に入る。如何にも打とうとする。だが、太刀はシンクロ(同調)せずに、遅れる。我が身の態勢の如何とは関わり無く、即ち空より、太刀は打たれる。「敵の気の間」を衝くためにである。

正直に書くと、ここいら辺りの機微は今ひとつ良く理解できない。

「身を打様になして(心と太刀は残し)」とフェイントを掛けるとは同じ?別物?
何故、太刀を遅らせねばいけないのだろう。それ程、敵の気の間を衝く事は重要なのだろうか。
今ひとつ得心はいかない。

「空より」打つという方は、分からないなりに何となく察せられるものがある。
と言うか、リアリティーがある。
意識や態勢から外れた所から打つなら、空よりという外にない。
単に語感だけの感想だが、虚よりというと、不意を衝くというニュアンスが強く混じって、そちらに気を取られてしまう気がする。それでも良いのかもしれないが。

いずれにしろ想起すべきは、武蔵は一つところに居着いたり、澱んだりすることを激しく嫌い、水の如く自在たるべしと繰り返し説いていることである。拍子を計るとは、武蔵の真骨頂なのかもしれない。