50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

五輪書を読む 水之巻 31  一 打つとあたるといふ事

一 打つとあたるといふ事

●原文 打つといふ事、あたるといふ事、二つ也。
打つといふ心は、いづれの打ちにても、思ひうけて慥(たしか)に打つ也。あたるはゆきあたるほどの心にて、何と強くあたり、忽ち敵の死ぬるほどにても、是はあたる也。打つといふは心得て打つ所也。吟味すべし。敵の手にても足にても、あたるといふは、先ずあたる也。あたりて後を、つよくうたんためなり。あたるはさわるほどの心、能くならひ得ては、各別の事也。工夫すべし。

○私訳 打つと当たるは全く別のものである。
打つとは、どの打ちにしても、打とうとして打つものである。当たるとは、結果としてそこに当たったという程のもので、たとえその当りが強く敵の一命を失わしむる程のものであっても、たまたまの結果たることに変わりはない。打つとは心得て打つもの、即ち、打つべき目的を弁えて、打つべき所を打つものである。この意味を良く理解しなさい。
また当たるに関して述べれば、敵の手でも足でも、先ず当てることが大事である。それは、当てて、その後に強く打つためである。当てるとは触る程のものと心得れば良いので、習得を図り、色々工夫しなさい。

☆当たるとは現代語では当てるなのだろうか。

少し前に、「縁のあたり」とか「石火のあたり」とか出てくる。ここで言う打つと当てるの違いを踏まえて読み直すとなる程と思う。私訳は不正確かもしれない。

「打つといふは心得て打つ所也」
ここでは「打つべき目的を弁(わきま)えて、打つべき所を打つ」と深入りせずに訳したが、当然もっと深い内容を含んでいると思う。心得てとは、その打ちを技として掌握している、会得しているということを含んでいるだろう。「結果として」ではなく、「打つべくして」を目指して、修練するのだと思う。