50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

五輪書を読む 水之巻 35  一 ねばりをかくるといふ事

一ねばりをかくるといふ事

●原文 敵もうちかけ、我も太刀打ちかくるに、敵うくる時、我太刀敵の太刀に付けて、ねばる心にして入る也。ねばるは、太刀はなれがたき心、あまりつよくなき心に入るべし。敵の太刀につけて、ねばりをかけ入る時は、いか程も静かに入りてもくるしからず。ねばるといふ事と、もつるゝといふ事、ねばるはつよし、もつるゝはよはし。此事分別有るべし。


○私訳 敵と我双方が打ち掛かり合った時、もし敵が受けたならば、自分の太刀を敵の太刀に付けたまま、粘る気持ちで敵に付くのである。粘るというのは、互いの太刀を離さぬよう、また力任せに奔らぬよう心掛けて敵に付くことが大事である。粘りをかける場合、どれ程静かに敵に付いても構わないのである。
粘るに似たものに縺(もつ)れるということがあるが、両者は別物である。粘るは強く、縺れるは弱い。この区別を間違わぬように。


一刀流では、受けてから落とすという技を繰り返し稽古するが、ここでは逆に受けられた時に相手に入ることを述べている。両者契機は逆なれど、力任せを戒め、剣を離さぬよう腐心することは共通している。「いか程も静かに入りてもくるしからず」というのは、いつもの剛腕武蔵のイメージと異なり面白い。

実は、この部分がこの段の肝なのだろうと思う。敵は跳ね返そうと頑張って受けている所へ、入ろうというのだから、通常ならば力比べの押し合いになるはず。そこに入るには、「あまりつよくなき心」で「いか程も静かに」入る。何故そうなのか、どうすればそう出来るのかは口伝の範疇なのだろう。

尚、「あまりつよくなき心に入るべし」という部分は実は良く分からない。すっきりしない。で、文脈から「力任せに奔らぬよう心掛け」と意訳したが、全く間違っているかもしれない。となると、上記の感想もまた違っているかもしれないが。


☆何流だったか古流の型に、剣と剣を付け合って揉み合う時に相手の急所を蹴り上げるという技?があるという話を聞いたことがある。急所があるなら、膝を蹴る、柄で顔面や首を突くなどは当然の話だろう。そう言えば、一刀流にも柄取りという技があった。

どうも古流の剣術では、1回打ち掛かってその太刀で決着が付かなかった場合、連続して打ち続けるか、相手にぴったり付くか、遠く離れるかという次の行動が必須だったようだ。
考えてみれば当たり前の話ではあるが、入る(付く)というのも、打つとセットの行動なのだ。改めて。