50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

稽古日記 53 2010.3.20

3時過ぎから8時半位まで、5時間余。これだけやったと言うのが今回の最大の収穫。
久方ぶりに、くたくたになるまで身体を動かした。夕食を噛む元気もなく、お茶漬けを流し込む。
 
それでも朝起きたら、血圧は(通常より)下がっていて、疲労感は無く、筋肉痛も殆ど無い。
多分、それは心肺能力がとても劣っているということなのだろう。運動量としてはそれ程でもなかったのだ。稽古会場は体育館の3階にあって階段を上るのだけれど、いつもそれだけで息が切れたり、動悸がしたりしている。これで一皮向ければ良いのだが。
 
●合氣道
「詰まるところ、足構えに行き着く」のだそうだ。
力を抜くこと、軸を立てることを再三再四強調されるが、そのための正しい力の使い方如何を考えると、足腰を正しく支える足構えに行き着くと言うことなのだろう。
 
実際、これまで足構えには殆ど注意を払っていなかった。と言うことは、これまでは正しい力の使い方云々以前の、外形的な真似のレベルであって、ようやく足構えに留意すべき=正しい力の使い方に留意すべきレベルに近づいたということかもしれない。
 
足構えの向こうには、丹田の意識というレベルが待っているのだろうか。
 
加えて曰く「(足構えは)昔の人は言われるまでもなく出来たことだが、現代ではまずそこから身につけなければいけない」とのこと。
歩き方一つとっても、現代では、上体を捻って腕を振り、足指で地面を蹴る歩き方が一般的である。余程意識して取り組まないと、この歩き方を脱せない…これは私の感想。
 
●剣術
相手の気を察して、打ちを外すのだそうだ。
 
先輩に聞くと、気など察知できない、動きの兆候を見逃さず対応するとの由。
だが、これは先生の言と矛盾はしない。同じ事を右から見て言うか、左から見て言うかの違いだと思う。
 
オカルトではないのだから、見えない何かを5感以外の何かで捉えよと言うのではないだろう。
 
見て、判断して、行動を起こすというステップ・バイ・ステップの段階的対応は不可ということで、見ることと外すという行動が一つの動きとなるようにせよと説いているのだと思う。
観と見の一つのバリエーション。
相手の動きを捉えることに捕らわれると、外す動作が別動作となって遅れる。
外すことだけしか考えなければ、一人相撲だ。
 
●居合い
今日から居合い刀(模造刀)で稽古。(模造とはいへ刀を振るという)緊張で神経が疲れるとの意見も聞いたが、私には、何の違和感もなく、しっくりと馴染んで、重さも特には感じない。ただ、確かに血振りの際は重い。
 
まず私に礼をする気持ちで、気を一旦留めてから動きに入る。
右手は動かさず、鞘を後ろに抜くように。尻を上げない。
水平切りの高さは首の位置。あくまで水平が基本であって、斜めに切り下げない。
切り終わりは柄頭が臍の位置。
血振りは無し。
水平切りの際、どうしても腰で回転したくなるが、多分これは間違いだろうと思う。次回確かめるべし。
 
これは以前剣術の時間に、組居合いをじっくりやったので覚えていた。
一打ち毎に半身がきれいに切り替わるように思う。そこを意識して、強い打ちを心掛けるべきか。
第1打(足首)から第2打(腰)へのタイミングと第2打(腰)から第3打(首)へのタイミングは異なるのではないか。理屈から言って。そんな気がする。次回確かめるべし。
 
 
2カ条 襟を摑まれたときの対応。
相手の肘を曲げる(曲げさせる)こと。曲がっていないと掛からない。
 
合氣道と比べて、私には大東流の方がやり易い気がする。
何と言うか、合氣道は精緻に過ぎて、前途遼遠という感じ。今は、身体使いの稽古(の段階)と割り切って、個別の技の習得は二の次として折り合いをつけている。
大東流では、あまり難しいことは考えずに済みそうな気がする。
 
とは言っても、今日までで4つ技を教えて貰ったのだが、キチンと習得できたものは未だ無し。
情けないがそこまで手が回らない。忘れてしまう。