50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

滑るが如く足を出す

日本人の伝統的な身ごなし、身体使いを、現代の我々は既に失っている。
失いかけているではなく、既に失っている。
しかも、何をどう失ったのかすら知らない。
そうして現在、我々の身体の動かし方は、西洋的な身体使いに置き換わっている。
 
そう考えています。
まぁ、今さら大上段に構えて言う程の新味ある命題でもないと思いますが。
 
昔の日本人はどんなだったのか、前々より興味がありました。
剣道ではなく、古流の剣術に惹かれた所以です。
 
「小さな妖精の国…青い屋根の下の家も小さく、青いのれんを下げた店も小さく、青い着物を着て笑っている人々も小さいのだった」
明治の半ばに来日したラフカディオ・ハーン小泉八雲)は、日本の第一印象をそう記しています。
 
また山間の村で遭遇した昔ながらの「盆踊り」を、こんな風に伝えています。
 
「…太鼓の音を合図に、かつてお寺であった建物の影の中から、踊りの行列が月明かりの中に繰り出して来たかと思うと、ぴたりと止まってしまった-若い女か娘たちばかりで、えりぬきの着物に身を包んでいる。いちばん背の高いのが先頭に立ち、あとは背丈の順に並んで、列のしんがりをつとめているのは、十一、二歳の小さな女の子たちだった。小鳥のように軽やかに身の平衡をとっている…
 
もう一つどんと太鼓が鳴ると、いよいよ踊りの開始である。それは、言葉では写し難く、想像も及ばない、夢幻の世界の踊りだった…
 
いっせいに右足を一歩前へ踏み出すのだが、足の動きは滑るがごとくで草履が地面から離れることがなく、同時に両手が右へ伸びて、ふわっと浮いたような手ぶりになり、笑みをたたえた顔が、お辞儀でもするように俯く。出した右足が後ろへ引かれ、もう一度波打つような手ぶりと神秘的なお辞儀とが繰り返される…
 
草履履きの足のすべりも、しなやかな手のうねりも、なよやかな身体の揺れ曲がる様も一糸乱れぬそろいよう。ゆったりと進む踊りの列は、いつの間にか、月光に照らされた境内一杯に広がる大きな輪になって、声もなく眺め入る人々のまわりをめぐるのである。
 
そして絶えず白い手がいっせいに、しなしなと揺れ動く。交互に輪の内と外とに、手のひらを或は上に、或は下に向けて続いていくそのしぐさは、何か呪文でも紡ぎ出すかのようである。妖精のような袖がいっせいに羽ばたいて、本物の翼のような淡い影を作る。足が複雑な動きのリズムに乗って、いっせいに平衡を保って進む…
 
物音ひとつしないあたりの静けさ…誰一人口をきくものがない。見物人でさえ黙している。かなり間遠な手拍子の合間合間に、藪にすだく虫の音と、軽く土埃をあげる、しゅうしゅうという草履の音が入るだけである…」
 
引用が長くなりました。
 
この後、ハーンは踊りの妖術の術中に陥り、そこに薄明の神代を見、地蔵の笑みを思い、冥界との境界が薄れることを予感し始めますが、空想が暴走する前に、歌が始まり現世に戻されます。やがて若者が加わって音頭を取り、歌に歌が続き、踊りの輪は大きくなって月の傾くまで盆踊りは続きます。
 
興味を覚えた方は、「盆踊り」 (小泉八雲・「神々の国の首都」講談社学術文庫に収録。因みに神々の国の首都とは出雲のことです) をどうぞ。
 
 
さて長々と引用したのは、「小さな妖精の国」の片鱗を感じていただきたかったと同時に、その佇まいを背景にして、次の一節を検討していただきたいと思ったためです。
 
「いっせいに右足を一歩前へ踏み出すのだが、足の動きは滑るがごとくで草履が地面から離れることがない」
 
この足の動きが、現代の我々には出来ない。
私は踊りは門外漢ですが、日本舞踊の方も肯いていただけると思います。
 
思うに、ズボンに靴、或はスカートにパンプスの生活からはこの動きは生まれない。
着物に草履下駄という生活があって、初めて会得する身ごなしに違いない。
歩き方自体というか、身体使いの文法がそもそも異なった体系に拠っているように思えるのです。
 
「何を大袈裟に言っているのか。さっぱり分からん」という方も多いと思います。
その方々には、「私はそういう感想を持っていて、それ故こうして書こうとしている」ということでこの場は収めていただくしかない。
いずれ敷衍して理屈を述べる場もあると思います。
 
 ◆
 
剣術を習得する難しさ、また稽古を始めていきなり直面する様々の壁は、この身体使いの違いに起因しているように思われます。
 
我々が(何も考えずに)当たり前としている動き方をすると、技が悉く成立しない。
腕で剣を振る、体重を掛ける、上体を捻る、タメを作る、勢いをつける、総じて、力とスピードで強引に処理しようとする…等々
単純に、膝を柔らかくして、摺り足で動けば良いという問題ではない。
 
個々の技をそれぞれ稽古するだけでなく、並行して、身体使いの文法そのものを切り替えるべく稽古しなければならない。
高校では外国語を習うように古文を習った訳ですが、同じように未知なるものとして、日本人の伝統的な身体使いを 我々は習わなければならない。
 
「滑るが如く足を踏み出す」
 
そう、この一行を書くために、私は長々この一文を物しています。
我々が忘れてしまった身ごなしがこれだと思えるからです。