50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

見と観 ・見る1

しばらく「見る」という事について考えます。
「見る」から始まって、ものの捉え方辺りまで話が広がれば良いのですが、腰砕けに終わるかもしれません。
 
 ◆
 
「目付け」という言葉があります。
敵と相対した時に、どのようにして敵を見るか、敵を目で捉えるかという「ものの見方」を表す観念と私は解釈しています。
元来は、文字通り「目の付けどころ」を示す言葉と思います(もしかすると今もそうで、私のは勝手な拡大解釈なのかもしれませんが)。
 
さて、目付けには「見」という見方と「観」という見方があると教えられます。
「見」とは、目の前の事象を目で見ること。普通に目で見ること、そのままです。
「観」とは、目ではなく心で観ること。目に見える事象に囚われず、惑わされずに相手の動きを捉えることとされます。
当然、「見」ではなく、「観」を心掛けよとされます。
 
尚、この「見と観」なる、ものの見方に2種類あるべしという考えは当派独自のものという訳ではなく、むしろごく一般的な考えのようです。
 
「見ト云ハ、目許ニテ見ル事也。観ト云ハ、心ニテ観ル観智ノ事也。精神腹ニ治テ強ク成ル気ヲ発シテ見ルモノ也」(二刀一流極意条々)
意訳すると、「見』とは目でじかにものを見ること。それに対して、『観』というのは、心で観ることによって得られる『観智』のことで、それは精神を腹に収めて、強く練った気を外に発してものを見、獲得するものである
 
これは、宮本武蔵の「五輪書」の脚注にあったものです。二天(刀)一流は当派とは全く関係ありませんが、まぁ分かり易いので勝手に引用しました。
尚、この「二刀一流極意条々」なる書物がどういうものか知りませんが、文の調子から、武蔵本人の書いたものではなく、後世の人間が書いたもの、それもかなり時代が下って明治以降かもしれないという気がします。あてずっぽうですが。
 
少し脱線します。
「心ニテ観ル」です。
実は私は「心」という言葉が嫌いで、「心で観る」などと言われるとそれだけで反射的に数歩引きます。そう、「心」なる言葉は濫用されて、いかがわしく、胡散臭い。「夢」なんてのもそう。「ふれあい」に至っては、消費され飽きられて、今では見向きもされない。意味の曖昧な、情緒にもたれかかった言葉は嫌いです。それは退廃という気がする。
…が、冷静に振り返ると、そういう言葉のインフレというか、ポピュリズムもこの20年30年のことなのかもしれません。現在の基準で過去を評価してはならない訳だから、ここでの「心」もその一例なのかもしれません。
事実、宮本武蔵五輪書で「心」という用語をたくさん使っていますが、それは身体に対する心、即ち「意識」程の意味で、べたべたと余計なものをまとわらせずに、その本来使うべき意味以上でも以下でもない普通の言葉として用いています。
だから上記の「心ニテ観ル」も、「(視覚ではなく)意識のレベルで感知(観智)する」という程の意味に平に理解した方が良いと思います。
 
閑話休題。上記の「二刀一流極意条々」の趣旨とは少し異なるかもしれないのですが、観とは見の否定の上に成り立つような気がしています。
目で見てはいけない、目で見ても見ない、見つつ見ない、そうして初めて観智が得られるというのが、稽古をしていての実感です。私の場合、観智などというご大層なものではありませんが。
 
長くなりました。
稽古をしていて思ったことは、次回に。