50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

素振り ・見る2

「見と観」というのは、何か神秘的な秘儀とか奥義といったものではなく、ごく初級の段階から夫々のレベルに応じて身につけるべきもののようです。
 
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素振りの稽古に次のようなものがあります。
 
2人1組になって、剣を振っても当たらぬ間合いで向かい合います。
甲(素振りする側)は、上段に構えます。
乙(受ける側)は、相手の胸の高さで剣を水平に差し出して、構えます。
甲は上段から振り下ろし、乙はその気配を察して剣を引き、振られる剣を外します。
剣道のように、踏み込んで振ることはせず、その場で、基本的には足の位置を動かさず剣を振ります。
乙が外し損ねると、カーンという木刀同士が当たる高い音が響きます。
 
初級の同じ程度の技量の者同士では、外すことの方が多くなるようです。
それは以下の如く、相手の振ろうとする気を感知できるようになるという要素もあるには違いないのですが、それ以上に、相手のクセやタイミングを学習してしまうという事情もあるようです。まぁ、それを乗り越えるのが稽古でありますが。
 
蛇足ですが、振りのスピード、振り自体の絶対的な速度というのはほとんど意味がありません。それは「武術的な速度」という別の問題で、今回はスルー。
 
この稽古、どうしても当てる・外すというゲームに走り勝ちになるのですが、実際それはそれで面白いのですが、これは本来とても重要な基本の稽古なのです。
 
甲(素振りする側)は、この稽古で、初動を消すという言い方をするのですが、動きの予備動作、タメ、動きのクセなどを一つづつ消していきます。地味な、積み重ねの稽古です。また、剣と体を一致させる、更に気と剣と体を一致させることを目指します。気剣体が一致できて、やっと当派の剣術のスタートラインに立てるとされます。
 
乙(受ける側)は、まさに見と観だと思うのですが、観によって、相手の(打つ)気を感じ取り、対応することを目指します。
 
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さて剣を外す乙ですが、この時、相手の動きを目で見て、情報を脳に送って判断し、それから各筋肉に指令を送って動く…というのでは当然間に合いません。
何せ、上段から胸に振り下ろされるまでに外さなくてはならないのですから。
 
比喩の話となりますが、目と脳で情報判断してからスタートする-おもむろにアクセルを踏んでエンジンの回転を上げ、クラッチをつなぐのでは間に合わない。
GOサインを得たら直ちにクラッチをつないで飛び出せるように、GOサイン待ちの状態で待機することになります。ブレーキを踏みながらアクセルを踏んでエンジンの回転を調整しつつ、且つ半クラッチの少し手前で待機する訳です。
 
そして重要なことは、そのGOサインは、それでも尚、目で相手の初動を捉えたのでは間に合わないということです。
例えば、肩がピクッと動いてから剣が振られるとして、そのピクッを目の端で捉えていたのでは間に合わない。ピクッのピで動き始めるためには、(通常の)視覚よりもっと速い何かでそれを捉えなければならないのです。
 
で、(GOサインを求める態勢は)私の場合、耳を澄ますというか、(気を)聞くという感覚になります。
耳に聞こえる訳ではなく、むしろ飽くまでも(ある種の)視覚なのですが、目を凝らして追い求めるのではなく、逆に目を曖昧にして兆候に耳を澄ませて待つという感じです。
 
前回「見」の否定の上に「観」は成り立つと書いたのは、つまりこのことなのですが、この時、目の焦点をどこかに合わせると、その画像に囚われてしまい、聞こえなくなります。視覚を消さないとならない訳です。
ですので、私は今、相手の胸の辺りに(焦点を合わせぬまま)目を置いていますが、これがベストとも思えず、試行錯誤中です。
で、そうした態勢のまま耳を澄ましていると、相手の打とう、振ろうという気を感知することができます(正確には、できることがあります)
 
最もはっきり分かる場合は、「今から行きます」と丁寧に挨拶されてから実際に身体が動き始める、という風に映ります。映りますというのは、(ある種の)視覚として捉えられるという意味です。
大抵の場合は、「今から来る」と、いきなり結論の形で感知されます。視覚でも聴覚でもなく、いきなり分かる(分かってしまう)のです。
 
(ある種の)視覚として捉えられると書きましたが、これは余程初動のサインが露骨で余裕のある場合の話です。相手の輪郭が滲んで、透明な影が動き出す、その数瞬後に実際に剣なり身体なりが動き始める、その透明な影を見ることが出来ると言うとかっこよすぎるでしょうか。
その視覚像自体は錯視の類かもしれませんが、視覚で捉えられるのは面白い。
また、この場合、「今から」と実際に動くまでの間には、数瞬というか、ある程度の間がありますから、単に外すだけでなくて、相手の剣を押さえる、或は先を取って打ち込むなんてことも出来そうな気になりますし、もしかすると目を瞑っていても外せるかもなどと思ったりします(実際に1度目を瞑ってやってみましたが、ものの見事に失敗でした)
 
大抵の場合の方ですが、いきなり分かるとしても、分かって了解してから動いたのでは遅い。いきなりのい、来るのく位を受信した段階で動き出す必要がある。
何と言うか、その即応体制を練るというか応答の感度を上げることも、受信の感度を上げることと共に「観」の稽古の課題の一つだと思います。
言わずもがなですが、ここで述べたのは、素振りに応ずる場合の観(のそのまた一部)であって、観全般ではありません。
 
話は前後しますが、これはオカルトとか、超常能力とかの類では全くない。
やる側から言えば、一つの技術です。原理的にはパターン認識の一種かなと思いますが、手許にそれを検証する資料を持ちません。
 
以上は私の場合ですが、武道をやっている人なら、具体的な感覚は異なれども同じような経験というか、技術を持っているはずで、つまり、その意味でも決して特別な何かではない、そう思います。
 
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最後に、先生によれば、中国武道には動き方に関して次のような言葉があるそうです。
 
蓄勁 タメを作ってから、動くこと。最低。
暗勁 タメはないが、動きに明暗の色が表れている。進歩はあれども、まだまだ。
霊勁 欲するままに動くこと。無色透明な動き。理想。
 
勁は力、暗は秘す、というような意味だから、単純に溜め込むままの力から、蓄えた力を秘すあり方へ、最後は力そのものから自由になった力のあり方というような意味でしょうか。
言葉だけなら分かったような気になるけど、実際には、その明暗の色を感知識別すること自体が稽古を積まないと会得できない技術である訳で、まぁ先は長いなと思います。