50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

観と見 その2・見る3

さて、これは流派の解説書ではないし、剣術の研究書でもない。
正しいことを書く必要は無く、面白いと思ったことを書き留めれば良いという初心に帰って、改めて。
 
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もう暫く「観と見」の周りをウロウロします。
 
宮本武蔵です。
武蔵に依れば、「目の付けやうは、大きに広く付くる目也」とあり、「目の玉うごかずして、両わきを見る事肝要也」とされます。「遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る」ともありますが、内容的としては同じことの別の謂いと思います。
 
で、この見方、遠くを見ながら、同時にすぐ両脇にも意識を向ける。
実際にやってみれば分かることですが、これは視点(焦点)をどこにも合わせない見方です。ちょうど、無限大に焦点を据えた何十年も前の固定焦点のカメラのようです。全てにピントは合うが、全てにピントは甘い。
視界は実に広く、且つ遠くまで一望できますが、個々の形や動きはぼんやりと影のようにしか見えません。ただ確かに、全体と同時に個々を見ることができます。
 
そして、個別の対象をはっきり見ようとして、どこかに視点(焦点)を合わせると全体像は失われます。
また個人的には、こうすると耳を澄ます姿勢に近づく気がします。
 
 
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別の書付(兵法三十五箇条)ではこんな風に述べています。
 
「どこに目を付けるかについて、昔は色々意見があったようだが、今は大体顔に付けることに落ち着いている。
この時の目つきは、通常よりも少し目を細めるが、(すがめたり上目使いになったりせずに)平らで清明な目が良い。
目の玉は動かさずに、敵との間合いが如何に近くとも、できるだけ遠くに視点を合わせる。こうすれば、敵の技は素より、左右両脇まで視野に収めることが出来る。
観見二つの見方は、観の目は強く、見の目は弱く見る。
…云々」
 
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さて、このような見方、目の使い方は、実は、現代の我々もごく普通に行っているような気がします。
例えば、自動車を運転する時、ある程度ベテランのドライバーなら、当たり前のこととしてそんな見方をしています。
 
流れに乗って運転している時、直前の車のテールランプを見て走るのは初心者です。
普通のドライバーは、数台先の車に視点を置いて、見るとはなしにぼんやり見て、車の流れを追っている。そうして道の状況や先行き、歩行者・自転車の飛び出しなどの突発要素、先行車・対向車の動向等々を捉えつつ、同時に直前の車のテールランプも視野に収めてチェックしている。
これは、「大きに広く付くる目」であり、「目の玉うごかずして、両わきを見る事」に近い。(言わずもがなですが、テールランプを見るのは、視点を固定してその情報だけを得る「見の目」です)
 
更に言えば、何かを察知して対応する(例えばブレーキを踏み始める)までに1秒かかるとして、その1秒間に、時速36kmで10m、60kmで16m進む計算になります。
ですから、運転するとは、時間で言えば1~2秒後以降、距離で言えば10~20m先以上で自分の車が至る状況を予測することに他なりません。その予測から逆算して、現在の運転詳細(いっちゃえとか、押えてとか)を決めるわけです。
これなどは、見えないものを見る「観」に近いかもしれません。
 
実際には、道路標識や道路案内は焦点を合わせないと読み取れないし、歩行者や自転車も焦点を合わせて注目しないと動きを予測できない訳だから、個別の対象に焦点を合わせる見方と、焦点を固定することなく全体をそのまま捉える見方とを併用し、使い分けて我々は運転しています。
 
「観」とか「見」とか言うと、大層な秘伝か何かのような印象を持ちますが、武蔵の専売でも、剣術の奥義でもなくて、だから余り大仰に考えない方が良いのかもしれません。