50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

妙と徼 見る4

目を凝らして見る、目を細めて曖昧に見る。
これはどこかで聞いたことのある話だなとずっと感じていました。
 
で、最近別の本を読んでいて、あぁこれかと気付いたのが以下の話です。
 
 ◆
 
(面倒なら引用部分はスキップしてください)
 
老子 第一章
 
道可道、非常道。名可名、非常名。
無名、天地之始。有名、萬物之母。
故常無欲以観其妙、常有欲以観其徼。
此兩者同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
 
道の道とすべきは常の道に非ず。名の名とすべきは常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に、常に欲無くしてその妙を観、常に欲有りてその徼を観る。
此の両者は同じきより出でて而も名を異にす。同じきを之を玄と謂う。玄の又た玄、衆妙の門。
 
 ◆
 
老子の最初の章です。
以下に自己流の訳を記します。尚、正しく訳そう、解釈しようという意思は捨ています。
 
(私訳)
 
大事な事はこういう事である。
 
道は常に有る。天地の始めより有り、今も有り、また将来も常に有る。それは恒つね)なりて変わらざる道である。
 
だが、道として定められた道は、既にして道ではない。
人によって「これぞ道なり」と定められた刹那、それは恒なる道ではなくなってしまう。
今風に言い直せば、定められた道とは、ある特定の範囲に於いてのみ成立する個別有限の道であり、恒なる道の断片である。
 
同じ事は名についても言える。人によって「これ」と名付けられたその瞬間、名など持たずにあったそれは、恒なりて変わらざるものたる事を止め、個別有限なるものに変容する。だから名もまた、名などに頓着せぬ恒なるものの断片である。
 
譬えて言えば、野生の獣を捕らえて首輪をつけるようなものかもしれない。
野生の獣に対して、我々は遠間から目を眇めて遠望する事しか出来ぬ。それしか出来ぬ事を知らねばならない。
捕らえて首輪を付ければ、飼い馴らさぬまでも、手許に置いて仔細に観察する事が出来る。だが、獣が本来持っていた某なにがしか、野生の某は永遠に失われる。首輪を付けられた獣は人間に支配された獣であって、獣本来の姿からは変容しているのだ。
それは、捕らえた人間の掌に見合った獣でしかない。
 
だが人の世の生活に於いて、我々は名を以ってしか物事を認識できないし、人と伝達できない。
これが、もう一つの大事な事である。
 
こういう事である。
世界の始めには名がなかった。なにものにも名は付けられていなかった。
だから、名を付ける事から人間の営みは始まった。名があって初めて、我々は物事を認識できるし、人と伝達できる。。故に名は万物の母である。
但しその名とは、名付けられる以前の本来のものの断片でしかない旨を忘れてはならない。
 
だから、ただ目に映るままに見るならば、恒なる道、名のない世界をぼんやりと眺める事ができるだろう。仄暗い物事の狭間を目を眇めて眺めれば、最も微かな本質、即ち「妙」みょう)がやがて見るとはなしに目に映るのである。
 
他方見ようとする意志を持って、目を凝らして見るならば、物事の起承転結、原因と結果を知覚する事ができるだろう。物事は明瞭な輪郭線を以って、画然と識別される。これを「徼」きょう)という。名を付けるとはそういうことであった。科学はこの範疇に入るだろう。定義し、観察し、知見から世界を再構築する。
 
だが、人によって付けられた名が断片に過ぎぬものならば、名によって再構成された世界もまた、本来の恒なる世界とは似て非なるものであり、個別有限の世界である。
我々はついついこのことを忘れてしまう。
目に見える世界を、世界そのものだと思い込んでしまうのだ。
それは名付けた人間の背丈に丁度見合う大きさの世界に過ぎぬ。
このことを片時も忘れてはならない。
 
人間の営みが名を付けることから始まったことを思い起こせば、目に見える世界、即ち「徼」は、見ようとする意志を持った目が捉える世界であり、人間の営みの世界である。
見ようとする目には見えぬ世界、世界のあえかな本質、即ち「妙」は、人間の営みを捨てた先に、見ようとする意志を捨てた先に、仄暗い狭間から見えてくるものである。
 
「徼」が画然たる断片の獲得であり、「妙」があえかな本質の受容であるなら、「徼」も「妙」も、その生じたる母体は同じものである。目に見える世界も目に見えぬ世界も、実は同じものなのである。ただ見方と見え方が異なるに過ぎない。
この両者の母体たる世界は、我々にはただ仄暗いものとしか表せない。
そして、「徼」ではなく「妙」を得る態度で、仄暗いものから更に仄暗いものへと目を転ずるしかないのである。
 
 ◆
 
(続く)