50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

無欲を以って見る 見る5

続き)
 
第1章の私訳は以上。
 
で、「見と観」との関連を図式的に表せば、
「見」に相当するのが、「欲を以って見る」見方であり、そうして得られるものは「徼」、
「観」に対応するのは、「無欲を以って見る」見方であり、得られるものは「妙」となる。
 
(ただし、この図式がこのまま成立するか否かは別問題)
 
 ◆
 
(残念だが今現在、関心は「老子」の解釈に移っている)
 
「無欲」とか、「無心とか」、日本人は好きだ。好きと言う以上に弱い。この単語が出てきただけで、もう思考を停止させて万歳してしまう。逆に「欲を以って」などとと言うと、それだけで門前払いの感がある。
 
で、「無欲を以って観る」「欲有りて観る」と言うと、「欲」という言葉の内容など吟味せずに、日常語の情緒的イメージそのままに解釈して流してしまう。
でも果たしてそうかと思うのだ。
 
「欲」を、我欲我執とか、欲望、下心とか、そういう情緒的な色を排して考えてみる。
「欲」を「○○したい、○○を得たい」という願望・意思と置いてみる。この意味に沿えば、「夢」などは欲の最たるものとなる。
 
で、「欲を持って観る」とは、「観ようとする目的意識を持って見る」とか、「はっきりした認識を得ようという意思を持って見る、観察する」という意味になるだろう。
 
であるならば、「無欲を以って観る」とは、「見ようとする意思をを持たずに見る」とか、「目に映るに任せて見る、眺める」というような意味になる。
 
「無欲を以って観る」と「欲心なく、無心に見る」とは少しニュアンスが異なるように思える。何故なら、見ようとする意思の有無が問題となるからで、例えば、「欲心なく無心に観察する」は、欲を持って見るの筆頭に位置する気がする。
 
欲の有る無しは、見ようとする意思の有る無し。私訳ではそのように訳している。
 
 ◆
 
(今回、改めて読み直してみてわかったこと)
 
長い間、章の後半が良く理解できなかった。
「妙」とは何なのか? 「玄」とは何で、「衆妙の門」とは何なのか? …etc.
微妙なもの、仄暗いものと言われても、それ以上にイメージが広がらない。
私訳でも、後半はくどく、まだるっこしいと自分で思う。
 
でも、フトというか、改めて気付いたのだが、「名の名とすべきは常の名に非ず」なのだ。
 
「妙」と名付けたその瞬間、それは「妙」ではなくなる。「妙」の断片でしかない。
「玄」も「衆妙の門」も同様。夫々の影でしかなくなる。
 
そもそも、明白な認識を得ようとする、因果律に於いて把握しようとする態度は、「欲を持って見る」であり、「徼」を求めることであった。
「無欲」でなければ見られない「妙」を、「徼」の形で捉えようとしていた訳であって、これは現代人の思う上がりというか、何を読んでいたの?という話であった。
 
わからなくて良いのだと改めて思った。
 
 ◆
 
「見と観」から老子に飛んだ訳ですが、だから何だと問われると困る。
ここから更に発展するという話ではなくて、ここで終わり。というか、続けるとどんどん別の方向に向かってしまうので。