50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

稽古日記 108 2012.02.25

先週はギックリ腰で稽古を休む。
ごく軽いものでその日から通常通り動いていたのだけれど、しばらく椅子に坐っていて立ち上がると、腰が伸びない。その場で腰を伸ばしてから、よぼよぼ歩き始めるという状態。面白いもので、家の椅子もソファーも、会社の椅子も、車のシートもすべてダメなのに、地下鉄のシートだけはOK。すぐに歩き始められる。あの低さが適っていたのだろうか。
 
で、今週、丁寧にストレッチをしようと、3時過ぎに顔を出したのだが、誰も居ない。変則的な時間割だったのだが、チェックを怠ったので吾不知。而して6時まで子供組の脇で自主稽古。6時半より9時まで、合気道と剣術。
 
腰のどうにも良くない時、風呂場の鏡で見てみると、上体が右に傾いで「く」の字になっている。庇って、歪みが大きくなっていたのだろうけど、元々そういう傾向があったのだと思う。
中心を捉えている積りなのに、ずれているとまま指摘される。相手の中心を捉え難い、ずれる、方向が定まらない、固定できない…等々。自分の軸が傾いていたらうまく行く訳はないが、自分では、歪みはなかなか把握できない。
 
交点を通して相手(の中心)を観る。気を通すと言い換えても良い。
或は、交点を頂点とする三角形で相手を捉えるとしても同じ内容かもしれない。
そして、このことが剣と体の一致なのだと指摘される。
 
個々の言葉は何度も聞いていた訳だけれど、そして決して聞き流していた訳ではないけれども、こうして一つに繋がると得心がいく。
 
例えば八相からの袈裟切りの対する切落とし。袈裟切りを受け止めた時点で、その交点と相手の中心を繋ぐラインが見えれば、うまく技が掛かる気がする。
ラインが見えるというのは、誇張でも比喩でもなく、文字通り見えるのである(但し、顔(目)は相手を向いている訳だから、目の端で捉えるという感じだが)。
特別のことでもオカルトでもなく、見える。例えば車で連続したカーブを縫うように走る時、見える人には通るべきラインが見えるだろうし、書道で半紙に文字を認める時、見える人には最初に下ろすべき筆の位置が見えるだろうと思う。特別のことではない。勿論、誰でも、いつでも、どこででもという訳ではない。
つまらない解説を加えれば、多分それは、空間的な全体把握を、視覚的な感覚を援用して得ているということなのだろう。
 
上段からの切落としは、そこまでの余裕が無い。交点を感知するにも至っていない。それはこれからの課題。
 
気剣体の一致が当面のテーマなのだが、今日は、「交点から相手を観る」の1点だけで可。