50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

五輪書を読む 水之巻 38 一 おもてをさすといふ事

一 おもてをさすといふ事
 
(原文)
(おもて) をさすといふは、敵太刀相になりて、敵の太刀の間、我太刀の間に、敵のかほを我太刀さきにてつく心に、常に思ふ所肝心也。
敵の顔ををつく心あれば、敵の顔、身も、のるもの也。敵をのらすやうにしては、色々勝つ所の利あり。たゝかい内に、敵の身のる心ありては、はや勝つ所也。それによつて、面をさすという事、忘るべからず。兵法稽古の内に、此利、鍛練あるべきもの也。
 
(私訳)
(おもて) す、つまり敵の顔を突く心積りを常に持つ事が重要である。互いに太刀を抜きあって相対した時、敵の太刀の間合い、我の太刀の間合い、それぞれを測るに際して、我が太刀が先に相手の顔を突き得るよう図らなければならない。
敵の顔を先に突く。そういう間合を我が得れば、敵の顔や身は仰け反る (のけぞる) ものである。敵を仰け反らせる事ができれば、色々勝ち味が生じる。戦いの最中に、敵の身が仰け反れば最早勝敗は決する。
だから、面差す(顔を突く)という心積もりを忘れてはいけない。稽古に際して、この事、鍛練すべきである。
 
(補足、或いは私語)
● 「心」という言葉が、少なくともこの段に於いて、よく分からないで、迂回して訳している。だから、訳として中途半端、虻蜂取らずは自覚している。
「敵の顔をつく心あれば」とは、単に気構えなのか、それとも実際にそのような間合いを得る事なのか。ここでは、後者を採っている。更に、「敵の身のる心ありては」に至っては大幅に意訳すしかない。だが、まぁ大きくは違っていないだろうと思う。
 
余談。「心」という言葉は色々に使われるが、心=芯 という解説が一番しっくりくる。物事の芯にあるもの、基本に位置して動かざるもの、而して全体の性格を決定すべきもの。現代語の「心」なる言葉は、余計な装飾がうざく、願い下げだが。
 
のる (漢字で書くと、「伸る」)
現代でも「のる」という言い方をするが、その「のる」とは意味が異なるように思う。
例えば「切落し」で「のる」と言えば、相手の剣にのる。漢字で書けば「乗る」だろうか、主語は自分である。自分の剣が、相手の剣に乗るのである。
ここで言っている「のる」は「伸る」。自動詞で、仰け反る (のけぞる) という意味である。「顔も身ものる」とは、顔も身体も仰け反るという事。「敵をのらする」は、敵を仰け反らせる。
現代の「乗る」では、全く意味が取れない。
 
永らく中断していたが、気が向いたので、五輪書 水之巻 の続きを読んでみた。
次回はいつか分からない。