50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

音痴

音痴と言われる人がいる。
歌を歌うと音程を外したり、リズムが狂ったり。そういう人は確かに居る。

だが、音程を外したり、リズムを狂わせたりするから音痴なのだと言うのは間違いではないが、正確な言い方ではない。
何故なら、音程を外したり、リズムを狂わせたりするのは、一つの結果であって原因ではない。(つまづ)く原因はもっと他の所にあるように思う。

十人が十人にあてはまるかは不明だが、その躓きとは、音を聞けないことにあるのではないか。伴奏の音、他の人の歌声、自分自身の歌声、更に言えば楽譜の音。それらの音を聞きながら、自分の歌声を構築または微調整していくことが重要で、そこが音痴か否かの分岐点であるように思う。

関心があるのは、運動音痴についてである。
頭で分かって、見本を見せられても、いざ自分の番になると平気で同じ間違いを繰り返す。頭を動かすな、突っ込むな、腰を入れるな、ためるな、どかすな、二挙動になるな、右手で捏(こ)ねるな、左手を使え、…etc。

で、「音を聞けない」に相当するのは何なのか。
思うにそれは、筋肉がこんがらがっていることではないか、という気がする。

筋肉がこんがらがるとは、団子状態に凝り固まった筋肉の1団を団子のまま引き連れて動き回る状態である。
必要な筋肉を、必要(最小限)な力で使えば済むものを、要らない筋肉まで動員して且つ必要以上の力で行なう。例えば、電気のコンセントからプラグを抜く時、歯を食いしばっていたり、ノートに文字を書く時、反対側の肩に力が籠っていたり。
要は力を抜けば良いのだが、それができない。

他派では「割る」-筋肉を割る、身体を割る-という言い方があるらしい。
当派では用いない用語なので正確なところは怪しいが、必要な筋肉だけを選択的に、且つ必要(最小限)な力で使えという意味なのだろう。

当然と言えば当然だが、当派でも実質的に同じことを指導している。
例えば「上げ手」。接点に意識を集中しつつも、接点は置いておいておく。手や腕を上げるのではなく、中指の指先だけを上に上げる。掌は「ワンコ(犬)の手」の形で、手鏡を見るように掌を自分に向ける、…etc。
これなども翻訳すれば、必要な筋肉だけを必要な力加減で使えという、実践的な指導に他ならない。

具体的に。
今、腕の内旋・外旋ということに気を掛けている。
腕を内旋させると、腰の筋肉が沈む気がする。外旋させると、脇の下の筋肉が締まる気がする。何を今更と思う人もいるかもしれないが、斑(まだら)模様で人の認識は進むものなのだ。

剣術を始めて10年近くになるが、この間、剣の振り方について教えられたことは、ほとんど一言に尽きる。即ち、「剣は胸の緩(ゆる)みで振る」
胸の緩みで振るとはどういうことなのか、その一言の周りをウロウロ廻ってきた訳だが、最近になってやっと少し、胸の緩みの感覚が感じられるようになってきた(気がする)。勿論、断片的且つ限定的なれど。

腕の内旋・外旋は、胸の緩みと関連がある匂いがする。
要は、腕の筋肉は柔らかく緩めたまま、別の筋肉を使って腕を振る訳だ。
そしてこの内旋・外旋は、腕全体を回すというよりも、手の指を以て操作した方が良いように思う。それが親指と人差指なのか、小指なのか。また指のどの部分なのか、側面なのか指先なのか。未だよく判らぬのだが。
もしかすると、「合谷」を合わせるという教えに連なるのかもしれない。

とまれ、COOLに、自分の身体‐筋肉の感覚に耳を澄ます必要がある。