50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

稽古日記 209 2020/07/06

コロナ禍で稽古が突然無くなり、2月を経て先月より再開される。

先々週、久方ぶりに稽古に出でしが、膝・腰軽く、諸々の技それなりに形を成す。

先週は体調芳しくなく、休みて、本日出席すれども今一つ冴えず。

「乗る」という感覚が今一つぼやける。修正できぬまま稽古を終える。

多分、上体だけで剣を振っていたのだろうと思う。反省すれば、腰で上体を支えている感覚、足裏で体全体の重さを支えている感覚を持たぬままであった。

稽古に際し、あくまで中心を取ることを本日の課題としていた。

身体を左右に割って、半分を残し、半分を入れる。稽古中、そのイメージを持ち続けることはできたのだが、如何せん、下半身軽く、上体だけの振りであった。而して、手打ちに終始し、意図は空転す。

次週の課題。

明日の都知事選の準備とやらで、会場を取り上げられ、居合は中止。

 

稽古日記 208 2020/02/15

久しぶりに合気道に出る。30分余なれど。意外にも覚えている。

●どうしても1挙動で動けない。

「脇が開いている」との指摘を受ける。意識して直すと、俄然良くなる。

うまくゆかぬ要因は、案外、そこら辺に転がっている小さなことであるかもしれない。

 

【剣術】

●「切落し」の時だったか、「切込み」の時だったか、受けが一瞬遅れた。

「蹴って動くから、その分一瞬遅れる」との指摘を受ける。

即ち「緩みで動くべし」と。忘れていた。

●「相手の中心にまっすぐ入るのみ」

言葉としては聞き飽きるほど。心がけているつもりでもある。

それはこういうことなのかと思える体験有り。三角を作り、維持して崩さずに相手に入る稽古のと時。言葉では表し難し、どう書いても過剰表現になる。

相手と剣を交えている。相手との三角は崩れずにある。幽体離脱かのように、その彼我を横目で眺めつつ、次元を異にした我が相手の中心にまっすぐ入ってゆく。そんな感覚。

もう一度、同じことをやろうと試みたが、三角の維持に汲々として再現ならず。

●「受け流し」

どうしても剣を回してしまうが、回す必要はない。ただ立てれば良い。中心を取っていれば、それで相手が自ら崩れてくれる。

稽古日記 207 2020/01/18

寒い一日。雨模様。参加者も少なし。

膝・腰 芳(かんば)しくなく、合気道は休んで、剣術と居合のみ参加する。

【剣術】切落し

  • ただ肩を抜けばよい。ただ肩を抜くに足る、必要最小限の力を加えれば充分なのであって、相手の全体に対応する必要はない。
  • 但し、その力は正確に相手の肩に作用する必要がある。つまり、合気を成立させるということ。三角の関係に於いて相手の肩を捉える。更に、どうしても等閑(なおざり)になりがちなれど、相手の中心に入り続けることが肝要。先生は「中心力」という言葉を使っておられた。
  • 交点を動かさず、且つ変化させること。できてみれば、なんということはなく、ただ切先を入れればよい。今まで何度も稽古してきたこと。漠然と剣を動かすのではなく、相手の肩に照準を絞った動きが成否の分かれ目。

【居合】座り技

  • 正座ができぬため、立って行う。
  • 当たり前の話なれど、手順を覚えてある程度スムーズにその動きができるというのは、いわばやっとスタートラインに立てたということであって、稽古の本番はここから。その型の求めるものに応えていく稽古が始まる。
  • 胸の緩みで動くことが当面する課題。

 

稽古日記 206 2019/03/09

リア充」とも違うのだろうが、稽古がそれなりに充実していると或いは稽古に逐われると、却ってこのような文章を書くことから遠退く。

接点の作り方が肝要。今は、各々の技の、各々の局面においていか接点を作るかが課題。

剣術
合気道と同じく交点を作り、維持することが課題だが、問題はその交点が見えない。例えば書道で文字を書く時、白紙の上に書くべき文字が見え、筆を下す場所が見えることがある。それと同じく、見えない空間のどこで相手の剣を捉えるかが見えなければ、安定して技を掛けることはできない。
マァ交点に囚われて、他の重要なことが疎かになっているきらいはある。

この数回、剣術の稽古の後半辺りから集中力が途切れる。気力が切れるのが自分で解り、技が掛からないだろうと事前に解る。
合気道を初めからやって疲れるせいなのか、困った。
最近、仕事中も妙に穏やかで且つ機嫌よく、良いことだと喜んでいたのだが、顧みてみればそれも元気なうちのことで、夕方になって疲れが溜まると人と会話することもなく、目の前の仕事にただ没入している。
年齢のせいとは思いたくないが、エネルギーの総量が或いは気力というものの容量が低下しているのかもしれない。
困ったことだが、こうして気が付いただけでも好とすべきか。


稽古日記 205 2019/01/05

今年最初の稽古なれど、出勤日にて遅れて参加、居合のみに出る。

右腕を痛めていて、ある角度以上上がらず、セーターやコートの脱ぎ着にも顔をしかめるというのに、面白いことに居合では、全く痛みを感じない。右手一本で、1kg以上はある刀を振り回すというのにだ。血振りも問題ない。…つまり、普段の行住坐臥に於いて当たり前の如く足腰を使って所作を行うということが如何に難しいかということ。

座り技をさらうが、色々と忘れている。
納刀で、右足の膝を曲げずに伸ばしたまま前傾して、鞘に入れること。
横雲では、抜き打ちではなくただ拔くだけ。だから、切先を走らせない。
現状では出来ないことは承知しているのだが、正座から片膝立ちになる時に、身体が傾く。すっと眞直ぐに立てない。
頭が揺れないためには、膝を固定する必要がある(固定という捉え方が正しいのかは今一つ疑問だが)。多分一文字腰の足構えが常に必要なのだろう。
残月その他で、刃筋を整えること。そのためには、合谷でしっかりと正しく握る、また握り直すことが必要。
介錯ではどの時点で握り直すか、再確認が必要。次回忘れずに。

稽古日記 204 2018/11/10

仕事だったり、用事があったりで、稽古に出たり、休んだり。
落ち着かない。
何か本の広告文で見たのだが、2週間で3回思い返せば忘れずに覚えていられるそうな。1週稽古に出て、次の週を休むと確実に忘れる。

動作を起こす前の状態があって、次いで動作が終わった状態になる。
つまり途中の動作の過程が無い。剣術で言えば、例えば構えている状態があって、次に来るのは振り終わった状態。振るという動作が無い。そうすべしと先生から指導される。抽象的にはなんとなく判る。個別の動作でも、そんな感じで動けるものがある気がするにはする。されど、ここからが長いんだな。

技にしても、技以前の身体の動きにしても、イメージで動いているというところがある。そもそも体の動かし方など、イメージでしか伝えられないし、捉えられないし、実際動けない。この筋肉をこう使って、次にそこは保留してこちらを少し使って…などと、仮にマニュアル風に箇条書きにできたとしても、それはただの書付で、忘備録以上のものではない。1+1の悟性的な世界ではなく、1で始まるとともに終わる世界なのだから。

…とは言え、イメージに寄り掛かるのではなく、身体的な裏付けを追求する必要もあるのではと最近思い始めている。
例えば素振りで剣を振り上げて構える。その時、構えの内実が問われる。多くの者が、単に剣を上段に振り上げて止めてるだけという形だけの構えで、下の下。いざ振る段になって、まず振るための助走を開始し、その助走の後にやっと剣を動かしている。それでは遅いし、見切られる。
その構えの状態があり、次の状態は振り終わった状態となるように、身体を整えよと指導された。そのような構えの状態を、初めて構えと呼べるのかもしれない。
「気を養い、胆を練り、身を整える」のだそうである。
頭や肩を動かさない。その為には、動かさないと念じるだけでなく、一つひとつ自分の身体の状況をチェックしていく作業の積み重ねが要る。

「胆を練る」で思い出した。腹に力を入れてはいけない。意識して力を抜き、柔らかく保つ。勝手な思い込みかも知れないが、今は大事なことだと思っている。
忘れると、すぐに腹が硬くなる。或いは、固くなっていること自体に気が付かない。

「気を養う」とは、穏やかな呼吸を維持することだろうか。穏やかさは、平明さにつながる。互いに剣を持って向かい合った時、平明な目で相手を見る。大事なことのように思える。これは、勝手にそう思い込んでいるだけの話である。