50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

稽古日記 203 2018/08/15

このところ、稽古に参加する毎に何か新しい発見があり、体得に一歩一歩近づく気がする。体得と言っても大それたものではなくて、「何時でも何処でも、切落しが掛けれらる=流れの中で結果として掛かってしまうのではなくて、一つひとつ課題(要件)をクリアした上で技を成立させる」という当面の目標についてなのだが。

一歩引いて省みるに、呑み込みが悪い、習得が遅いというのも強(あなが)ち悪い事では無いように思う。こうして10年余稽古を続けても未熟なるが故に、尚、新しい発見があるのだから。この年になって漸(ようや)く感慨を持つ、未熟というのは非常に贅沢なことだ。

剣術の技は、剣の使い方捌き方ではなくて、身体の使い方捌き方に収斂(しゅうれん)するのだろう。理屈でそう総括するのではなく、剣を振っていてそう思う。如何に肩や腕を使わないか、半身を割れるか、剣に身を入れられるか等々。多分、足構えとか、底丹田とか聞きなれた要件に立ち還ることになるのだろうが、、未だ道筋を見透すこと能(あた)わず。

何か週毎、月毎に体力が戻ってきて、身体がしっかりしてくる実感がある。心臓の手術後、ほぼ半年が経った。当人の意識に関わりなく、身体は身体の時間で回復していく。そう、身体は意識から独立している。意識が人間の主体であるなどというのは、意識の思い込みに過ぎない。

稽古日記 202 2018/06/09

前回より気がつけば4月を越えている。
この間さぼっていた訳ではなく、むしろ真面目に稽古していたのだが、実質を伴って日々をを埋めていく時には、ものを書く気が欲求が湧かないのだろう。

身体は大分頑強になってきた。
数日入院の手術とは言え、心臓の手術は手術。医者的にはとうに回復しているはずなのだそうだが、実際大雑把に括れば回復していたのだろうが、自身の感覚で言うとやっと「術後」を脱したという気がする。

フルタイムで、合気道・剣術・居合とこなす自信が無く、、遅刻して、短時間参加してきたのだが、昨日はいつもより時間を延ばして参加した。まだ少し早いかな。暑いこともあったが、居合の時は疲れて集中力に欠け、身体も動かない。
本来、追い込んで、恢復してという風に稽古を進めるべきものなのだろうが、さて中々恢復しない。今日も一日腰が痛くて、ぎっくり腰の後のようによぼよぼ歩いている。

覚えていることは身体が覚えている。空白を余り感じさせない。だが、覚えていないことは、きれいに覚えていない。やれば面白い。

剣術。
相手を打ってしまいそうで、どうしても剣の軌道が外へ流れがちになる。身幅で捌けない。先生曰く、「力で打っているから、剣をコントロールできていない(コントロールルできている自信がないから不安が生ずる)」とのこと。なるほど。
それは別の言い方をすれば、「剣に身を入れる」ことと表裏の関係にある気がする。
同じ幹から派生する二つの枝というか。
この辺りはやればやる程奥が深く、基本の稽古を1時間続けても私は飽きない。

稽古日記 201 2018/01/27

2週続けて、剣術のみ出る。
今一つ冴えない。
出来てたこと、出来たつもりのことがうまく出来ない。

何かが一つ、些細なことかもしれないが、狂っていて、全体のバランスが歪んでいる。

だけでなく、求められるレベルが上がっている。
75点で合格だったものが、80点を求められている。
面白いと言えば面白いことだが。

「うねり返し」
出来る時はいとも簡単に出来る。
出来ない時は、何をやっても出来ない。

先週は、腕と剣で落とすのではなく、胸の緩みで真下に落とすと同輩から指摘された。引くではなく、落とす。
されど今週も今一つ。未だ不十分なのだろう。

今週は、小太刀で落とす時の要領を思い起こすべしと指摘される。接点の移動。
なるほど。基本を十分に会得することこそ肝要。中学英語が会得できていれば、英会話教室など要らない。

手首の角度が良くないのかもしれない。
伸びすぎている。ふと思いつく。
来週それを試そうと思えども、果たして覚えているか不安。

受けのタイミングで、きちんと剣に入る事、このところ心掛けれどもそれは上達有り。
相手の技を掛けさせず、その成立以前に止めること、上達はあれど、もう少し。相手の剣が甘ければ、技を成立させずに受け斃すこと有り。

T君の中心を押さえる力、括目すべき進歩有り。これまで、中心を押さえることで優位を保っていたのが、俄かにその優位崩れる。而して、技は掛かり難くなった。こういう変化を目の当たりにするのは面白い。

稽古日記 200 2017/12/02

用事や仕事や膝・腰の不調等々が巡りあわせ悪く連続して、丸二月ほど欠席。
ようやく落ち着いて参加できるようになった。出てみると、やはり一心に身体を動かすことは樂しい。ただ、驚くほど、病的と疑うはど、筋力が落ちている。

相手の正眼を上段から切落す(?)稽古。記憶では初めて。
乗るというより、剣の厚みで弾き飛ばすという感覚。「切落し突き」などは、むしろこちらに近いのかしらと思う。
また、「擦り上げ」の軌跡は、方向は真逆なれどこれと同じなりと謂う。
いずれにしても中心を捉えないと成立しない技。

擦り上げにしても、この切落(?)―固有名詞が覚えられない―にしても、払いにしても、また「燕返し」にしても、それらは如何にも剣の技で、また剣術ならではの技術や工夫があって面白いのだけれど、実はそれら個々の技は枝葉に過ぎぬと思う。
だから、剣技の習得にのみ関心を向けると、一番大切な核心に目がいかず、枝葉に捉われてしまう虞がある。
一番大事な核心は、中心を捉え、以てこちらの勝を得ることだと思う。或いは、中心を捉えられた相手の、負けを生起させるというか。個々の技の習得は、その現実的裏付けというか、中心を捉えた勝(或いは捉えられた相手の負け)を現実のものに固定する技術という役目なのだろう。
同じことの別の謂いだが、技の確かな習得が中心を捉える技術ともなる。だが、あくまで幹は中心の制圧であり、枝が技。技の実行のために中心を取るのではない。
改めてそう思う。

稽古日記 199 2017/09/30

膝の具合が芳しくない。遅刻して、短時間稽古に参加。
膝周りと脚の筋力がいやになるほど落ちている。
そのせいもあるのか、2時間半、集中が続かない。
体術(合気道)に面白さを感じ始めているのだが、残念だ。

剣術。
打つという気が露わで、露骨過ぎるとの指摘。
剣を振る前から、察せられてしまう。
「気・剣・体の一致」とは入門の始めから言われてきたことだが、一致どころか、粗過ぎるとのこと。せめて密を目指せと。

改めて、「蚊を叩く」イメージを思い起こす。
これは「気・剣・体の一致」についての我流のイメージ。
●翔んでいる蚊を、拍手をするようにパチンと掌で叩いて潰す。
蚊は、蠅と違ってフラフラとゆっくり翔んでいるが、それでも正確に捕捉(ロックオン)しようと目でじっと追っていると、突然進路を変えられて見失ってしまう。これはままあること。
●蚊を叩くには、じっと目で追ってはいけない。補足(ロックオン)を望んではいけない。そこの居ると目の端で捉えたその時に、すかさず手を出さなければならない。100%の補足(ロックオン)は望むべくもなく、その辺りとしか捉えられずとも、間髪を入れずに手を出すしかない。これが気・剣の一致。
●もう一つ含意があって、それは気・体ないし剣・体の一致に関連する。蚊を潰すのに、音が出る程強く掌を打ち合わせる必要はない。親指と人差し指を静かに合わせる位の力と動きで充分なのに、哀しい哉、つい力任せに掌を叩いてしまう。遅いし、ぶれる。必要な力を、必要な場面で使うにしかずと言うのは簡単だが、では、いつ、どれ程が必要なのかと具体的に問うと答えは簡単ではないし、その通り体が動くかは別の話だ。体を練るとは多分そういうこと。

さて、頭で判っていて、イメージも出来ていても、ついつい相手を捉えよう、ロックオンしようとしてしまうのだな。安全策への逃避。武術は勝負事であり、つまり博打である。どこかで「命がけの跳躍」をしなければならない。そう思っておいた方が良い。

稽古日記 198 2017/09/16

合気道と剣術。

冴えない日。
初歩的なところで躓く。
出来て当然の、或いは出来ていたはずのことが出来ない。
ボタンの掛け違いで、多分、基本的なことが一つか二つ狂っている故なのだろうが、それを稽古中に修正できない。

認めたくないことだが、膝の按配が良くないことが一因か。
そう思うと暗い気持ちになる。

それにしても、2時間半の稽古で集中が続かない。
体力の問題か、膝を庇う故か。
特に後半の剣術、剣を怖いと感じ、気が衰えていると自覚することが何度かあり、これも落ち込む一因也。

剣を振る際、腰(の上下動)でリズムを取っていると指摘された。
その自覚は無けれど、そう言われれば思い当たる節はある。
膝への対応という意味合いを含め、改めて素振りから始める必要がある。

稽古日記 197 2017/08/12

合気道と剣術。

入身投げ」のような柔術に近い技は気が楽だ。
難しいことを考えずに、力とスピードに気を許しても構わない気分になる。
合気道はストイックな武術であると思う。
当会が特にそうであるのかもしれないが。

「剣術」
目の前の剣を如何に無視するか、
無視して如何に相手の胸に切り込むかが要であると改めて思う。

或いは気を通す、身を入れる、表現は様々なれど、要は相手の中心(胸)を如何に支配するか、また支配すべき行動を取れということだ。
中心を取れ、中心に入れさせるな等々も同じことの別の謂い、より技術的な示唆を含んだもの。

そう、切先を入れろと再三指導されるが、
これも直截的な技術指導であると同時に技の要諦を教えるものと思う。
剣は、相手の剣ではなく、相手の胸に対して振られるべきものなのだ。

噺の落ちではないが、もう一つの問題は、1週間するとこれを忘れてしまい、思い出すまで稽古時間の半分以上を費かうということ。
なかなか進歩しない訳だ。