50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

稽古日記 216 2022/12/03

課題 相手の剣に乗る

曰く「交点を動かさない」「中心に入る」「気剣体の一致」云々。

技術的な課題は、何度も繰り返してきたところ。目新しいことは何もない。

夫々に今日の稽古で気づいたことはあるが、特に重要と思われる一つのみ記す。

 

「中心に入る」→最後までやり遂げる。これが肝要。

中心に入っている積りなのに、剣をどかしている。それは即ち、その時点で中心に入っていないということ。もしかすると剣が当たるまでは、中心に気を集中していたのかもしれないが、当たった瞬間から全く別の動作が始まってしまって、剣をどかす方向に動いているのかもしれない。

最後まで、気を中心に向けて途切れさせない。どかすという方向転換を封ずるためには、途切れない一続きの動作として、気の集中を維持しなければならない。

二つのことを想起する。

一つは、同輩と稽古をしていてよく感ずるのだが、気が途切れることが多い。接触を契機に、接触までは保たれていただろう気が一旦途切れる、乃至終了する。そしてゼロから改めて次の動作を開始するから、気は通らず、合気は崩れ、無理押し、力押しの動きになる。技は掛からない。

二つ目は、稽古を始めてすぐの頃、ふと思ったこと。当時、宮本武蔵五輪書を読んだせいか、剣術、剣の動きは切るという目的のために存在するのであって、これを忘れた、乃至直接に意識しない剣の動きは踊りに等しいなどと考えていた。多分に頭でっかちの妄想の要素が強いが、サッカーで、常にシュートを意識した動きをするか否か、その度合いがその選手の動きのレベルを表すというのに似ている。一刀流では、気合を入れたり、掛け声を出したりなどはせず、静かに稽古が進むが、即ち表面には表れ難いが、テクニカルな技術習得と同等の比重を以て、この一刀に集中するという気構え、気遣いの養成が重要である。気の抜けた動きでは、如何にテクニカルな細部にこだわろうとも、技は成立しないのだ。具体的にどんな折だったかは忘れたが、そう感じたことがあった。切る意識と気の集中は、全く同一とは言い難いかもしれないが、そう、かく言う自分自身が切る意識を忘れて久しい。気と剣(テクニカルな技術)は、同等の比重を持っていると改めて記す。

 

 

稽古日記 215 2022/10/22

剣術のみに参加。

 

仲間の剣使いを見ていて感じたこと。気が途中で切れる。例えば、剣と剣が触れた刹那。一度切れたものをリスタートしようとするから無理が生じるし、而して技は成立しない。

 

構想力、或いは構想保持力が必要なのだと思う。

 

剣術とは剣を振ることに尽きる。大抵の人は、私を含めそう考える。より速く、より強く剣を振る。意識は剣を振ることに集中される。

だが、それは違うらしい。

「ゆっくり振れ」とは入門当初からの教えである。その意味の吟味は措くが、なかなか厄介で手強い敵なのだ。

一例を挙げる。強く早く振ろうとすると、上から抑えるような剣使いになりがちである。筋肉で言うと、親指側の腕の筋肉に力が入る。これはそのまま肩に力が入ることになり、つまり腕だけで剣を振る悪い例の典型。逆に腕の小指側を意識して剣を振ると柔らかく剣を振れる気がする。だが遅くて弱いように感じる。そこで例えば、右足の親指と左手の小指を糸でピンと結んでみる。勿論イメージの上の問題である。足の親指を動かして、手の小指を動かす。そうすると初動なく剣は動き、柔らかくコントロールされるように感じる。だが、この連動に囚われると逆に動きはぎくしゃくする。覚えた上で忘れなければ、多分使い物にはならないのだろう。

このことは、「ゆっくり振れ」の数ある含意の内の一つなのだと思う。

 

気を途切らせない。

相手の中心を歩いて通り過ぎる。

切先の3寸先で切る。

以上、現在心がけていること=課題。

稽古日記 214 2022/10/15

数か月ぶりに稽古に出る。

欠席の続きて少しく臆するところありきと雖も、周囲の吾に接する態度、まるで先週も出席していたかのように以前と変わらず、ありがたし。

意外に忘れず、覚えているものだというのが率直な感想。勿論、以前出来なかったことがいつの間にか出来るようになっていたなどということは無い。

 

●気剣体の一致は、予てよりの課題。もう少しに思えるのだが、そのもう少しが遠い。

交点の成立した瞬間に、交点を通して相手を捉えられれば技は掛かる、少しでもかすればそれなりにいいところまで行く。気を通すことが出来ればと言い換えても良い。だがまるで捉えられぬなら、気が交点で滞ってしまえば、交点での力の押し合いで終わる。これは何度も書いてきたこと。争うなという。争いたくはない。

 

●先生の動きを見ていて、改めて気づいたこと。気が止まっていない。仮令切込みのような受けをきちんと入れ、動きの一旦止まるような技においても、気はずぅーっと通り続けていて途切れない。だから動きも、一旦停止しているように見えても、実は動き続けていて一(いち)の動きとなっている。比べて吾々はどこかで途切れる。途切れるから、再開に無理をするし、動きも分割された2段モーションとなる。

 

●八双の振りに於いて、身体がブレブレだそうだ。さもありなん。下半身がまるで弱っている。家に籠っている時、戯れに船漕ぎや転換やらをしてみたことがあるのだが、まともに動けなかった。こつこつ鍛錬するしかないが、それは一番嫌いな稽古だ。

稽古日記 213 2022/05/14

忘備:課題

  • 動かさない。体を、特に頭を。動くのは、たぶん0発進になっているから。言い換えると、居ついているからと思う。上体に力が入るのはそれ以前の問題。
  • 動かさない。交点を。と言って、交点を通して相手に作用するのでは。されど、それは初級の課題。単に、染みついたクセという問題か。
  • フワッと剣にのる。ある日突然できるようになるのかもしれない。

 

稽古日記 212 2022/03/19

先週に続いて今年2回目となるが、本当に久方ぶりの稽古。1時間ほど。

1時間持ったのが驚き。体力が落ちている。

 

思っていた以上に、身体が動いたし、忘れていなかった。

ということは、感じた以上に動けていないし、忘れているということなのかもしれない。

 

素振り

●身体を動かさない。

●避けられない。避ける速度が遅くて、避けきれないように感じるが、反射神経云々という問題ではなく、見えていなのだろう。機敏・緩慢というのは、運動中の速度というよりは、起動の遅速と思う。そして、見えないというのは、自分が動いているからだろう。而して、身体を動かさないという原点に戻る。

 

中心を取る

●精度が必要。且つずっと維持することが課題。

●相手が回り込んで打ち込んでくるように見えることが多い。だが、先生と対する時、その感覚は得られない。今更気づいたことではあるが、それは中心を取っているからこそそう見えたのだろう。

●課題は、剣が触れて後に、或いは後にこそ、中心を取り続けること。それはまた、別の次元の課題と思う。

 

交点を維持する

●「中心を取る」に関連するが、剣の刃上で交点を感じなければ先に進めないかもしれない。

●剣を振る時、私を含めて大多数の者は、ただ腕を振っているだけなのに、剣を振っていると思い込んでいる。意識を切先に通して、切先の動きを感得できるようになれば、剣を振るレベルが上がる。

ものの本によれば、江戸時代の何とかいう剣豪は、切先の1尺(約30cm)先で相手を斬ることが極意と教えたそうな。そうすれば1尺長い刀で対することになる。2尺4寸(70cm余)の刀を用いながら、3尺4寸(1m余)の刀に変身する。その利点や思うべし。1尺(約30cm)は3寸(約10㎝)の記憶違いかもしれないが、そういうものなのだろうと思う。

●まずは剣の刃上で交点を感じなければ、相手を崩すことはできない。というか、主導的に状況を制御できない。多分、それが技術ないし技能というものなのだろう。

 

しかし、できないことがあるというのは本当に良いことだ。

歳を食うと、失敗や間違いや恥やをしなくなる。というか、できなくなる。

‥別の範疇のそれらに襲われることに直面するが、それはまた、別の話。

それだけでも、剣術を続ける意義はあるかもしれない。

 

稽古日記 211 2021/10/16

久方ぶりにきちんと稽古する。

合気道と剣術。居合は今日は辞退して早退した。疲れた。

コロナの影響もあり、きちんとした稽古となると中断は丸1年近くになるのではないか。これだけ長引くと、再開というより、新たに始めるというニュアンスに近くなる。

何故、この歳になって、しかも膝も腰もガタが来て階段の昇り降りさえ1段づつというのに何ができるのか、と吾ながら思う。

愚痴を言い出せばきりがないが、自分の身体は自分の思うように動かない。試行錯誤し努力して、できなかったことができるようになるのは面白い。しかも常識では信じがたい動きを意のままにこなせるようになるのである。力技ではない世界がある訳で、しかもそれが日本古来の柔の動きだというではないか、これは魅力的である。

ポチポチと稽古を始めることにする。

 

因みに、久方ぶりにやってみて、覚えていたことは覚えていた、課題としていたことはそのまま塩漬けされて課題のままだった。

 

稽古日記 210 2020/10/24

家の都合やら腰痛やらで何週間ぶりかの稽古。

 

●上段からの素振りが当たるようになった。また、避けられるようになった。

基本中の基本なれど、左手の握りをできる限り柔らかくして、足裏で切先を支え、ただ切先を意識して、柔らかさを保ったまま切先を走らせることに集中し、剣を振らず、相手の胸元に気を送るのみ。この剣を振らずに気を送るのみというのが、なかなか出来ない。

目付は、今まで相手の目または鼻を見ていたのだが、相手の胸元をぼんやり見るように変えた。注視しては囚われる。ぼんやり遊ばせると、気配が感じられる気がする。視覚というより、触覚に近いのかもしれない。とは言え、打率はまだ低い。

 

●「気を送るのみ」と先に書いたが、これが掴みどころなく、説明に困る。オカルトではない。況や精神論や気構えではない。極めて実践的、且つテクニカルなイシュー(論点)なのだ。

「気」とはこの場合、取り敢えず「意思」とでも理解すればよい。切るという意思を相手の胸元に放射する。その気に導かれて、剣が走る。繰り返すが、精神論でも比喩でもない。剣を振る、即物的な技術論なのだ。

比喩でいうと、自動車を運転する際、カーブは目(視線)で曲がる。上級になれば、アクセルも付け加える。よほど低速のクランクとか車庫入れ以外は、ステアリングをどう切るかなど考えない。これを上記に当てはめれば、ステアリングを切るが剣を振るに当たるわけだが、つまり要諦はカーブの最奥に気を送るという表現になる。

能書を垂れるのは簡単だが、実際に行うのはとても難しい。気を溜めれば、身体にタメが生まれる。或いは、余計な身体の動きが生ずる。剣を走らせる前に悟られてしまう。これから行きますと行儀よく挨拶してから剣を振ったら、避けられてしまうのは当然のこと。「兵は詭道なり」とは孫子の言であるが、私もそう思う。

 

これ以外にも気の付いたことはあるのだが、疲れた。

腰の具合が今一つで、大丈夫かと危ぶんだのだが、行って良かった。家で少しづつ行った、素振りの稽古の結果が出たのは素直に嬉しい。問題は、この感覚を次回まで覚えていてくれるかどうか。

来週は、会場の都合で休会。