50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

稽古日記 44 2010.1.9

稽古日記 2010.1.9

稽古始め

●切落とし
私の場合、下まで切らずに途中で止めてしまっているのだそうだ。
酷い場合は、途中で力を抜いてしまうこともあるらしい。
タイミングは良くても、相手の剣が落ちない理由はそこにあったのかもしれない。

途中で剣を止めても技は成り立つとのことだが、それは上級の話。
等加速度で切りつつ、止めるのは私には難しいから、どこかで加速しているのだろう。

されど、下まで切り下ろすのは恐怖が伴う。
相手を打ってしまうのではないかという危惧である。
だがそれも、力に任せてという要素があるが故に増幅されている気もするし、
ならば、等加速度で切り下ろせば避け易くなるのかもしれない。

また、剣が真っ直ぐに振り下ろされていないことを指摘された。
そこに拘っていたら、全体のリズムもバランスも崩れてしまった。
斜めでもいいと開き直って再開したら、どうにか元に戻った。

改めて振り返ってみると、負けまいと力任せの部分に気づく。
もう少し力を抜いて、丁寧に下まで切り下ろすことが次の課題。

●一挙動で切る
中段から振り上げて、振り下ろす。
この2つの動作を1動作で、即ち一(挙動)でやれと言う。

膝と腰を使い、身体を入れれば出来るというのだ。
肩で腕を上げ下げしているうちは出来るはずがないともいう。

先生の模範演技は、決して速く振っていない。
また、ちゃんと振り上げて振り下ろしていて、崩れていない。

ただ、五里霧中という訳でもなく、今はまだ出来ないがいずれ出来そうな気はする。

●小手打ち
互いに物打ちの辺りで剣を交差させた状態から、相手の小手を打つ。

剣を大回りさせないために、相手の剣を切先から縦に裂くような気持ちで打つ。
自分の剣が、相手の剣の腹を滑って、鍔にあたることを目指す。

五輪書に「石火のあたり」という項があって、引用すると、
「敵の太刀と我太刀と付け合うほどにて、我太刀少しもあげずして、いかにもつよく打つ也。
是は足もつよく、身もつよく、手もつよく、三所をもってはやく打つべき也。
…中略…、よく鍛錬すれば、つよくあたるもの也。」

小手打ちはこれに近いのかもしれない。筋肉の瞬発力で打つというような。
また、一で打つことを目指す訳だが、これは前の一で切るとは、少し趣が異なるような気がする。
少なくとも、一で切る時に速さは求めないように思う。

何と言うか、思い込みかもしれないが、力を抜く方向と、力を瞬発させる方向との相違。
身体を練ると鍛えるとの違い。
まあ鍛錬という位だから、両者はいずれ交わるのかも知れないが。

●必然
少し前にも書いたことだが、「今技をかければかかる」と感じられることがある。
その感覚を数多く(体験して)持つことが大事とも教えられた。

それは、例えば握られた手の接点を通して相手の肩を捉えた時の感覚とは異なる。
この場合は、感覚のフィードバックがあって、捉えているという五感による感覚が実在する。

だが、「今だ」という時には、五感による感覚はない。ただ、直接脳に浮かぶだけである。

先生曰く、それは必然の感覚なのだそうだ。
必然とは、納まるべきものが納まるべき処へ納まるということだろう。

そして大事なのは、多分、その納まるべく納まった全体を全体のまま感覚で捉えることだと思う。
各要素を分析的にチェックするのではなく、全体のまま直接結論をだす。

ここまで書いて、以前、似た命題があったことを思い出した。
見と観である。

話は飛躍するが、一で動くということには、ここに通底するものがあるのかもしれない。

●体術
体術をまとめるまで、いつもなかなか手が回らない。

摑まれた手のままに、相手を落とす。
この時、接点を動かさないことが重要だが、摑まれた腕は接点を維持することだけに集中させる。そうしておいて、腕は胸の緩みで(と言ってもうまく出来ないので、腹や背中の筋肉で押し下げる感覚で)動かすと少しは良いような気がする。

身体の色々な筋肉の意識的な分業と協同が必要。
且つ、ステップ・バイ・ステップではなくて、全体として一で動くことも重要。

気を通す、三角を意識するを繰り返し指導されるが、それは、指揮者(コンダクター)のように、動き全体をまとめて、方向を与える役割を果たすものかもしれない。