50を過ぎて剣術入門、気がつけば60超え

古武術の稽古日記です。

稽古日記 57 2010.5.1

先週は風邪で休む。今週は合氣道と剣術のみ。
 
●合氣道
技は1教と2教。
 
●中心に気を通す。
気を通すとは、何度も書くがオカルトではない。
 
「気をつける」と言う。注意を払うとか、集中力を途切らせない、とかいう意味だ。
気を通すとは、この用法に近い気がする。
 
脱線するが、何気なく気がすると書いた。またまた何気とも書いた。自覚がなくとも、気という言葉に我々は囲まれている。
 
そこに意識を集中させると、それに従って体が反応する。間接的ながら、そうやって自分の身体をコントロールする。気とはそういうものらしい。
 
例えば、自動車やバイクでカーブは目(視線)で曲がるのが肝である。
カーブを曲がるコツは、カーブの最深部を目で追い続けること。最深部に視線を合わせ続けるとは、意識をそこに照準し続けるということである。ステアリングをどう切るの、車体をどう傾けるのは、後から身体が自動操縦のように勝手にやってくれる。
 
ついでに書き足すと、オーバースピードで突っ込んだりスリップしたりして、膨らんだりスピンしかけたりした時、重要なことは、最後の最後まで出口を目で追うことである。よっぽど不運が重ならない限り、何とかなる。最悪なのは、途中で諦めて、或は怖さ故に、目を瞑ってしまうこと。これは助からない、と思う。ささやかな経験から。これは気が途切れた例か。
 
●一昨日だったか、風呂場の鏡の前で上げ手の形を試していたら、どうも肘が開く。
ふと思いついて、鏡の中の自分の中心と半身の軸を意識して(気を通して)、そこに体を入れるようなイメージで行うと、肘はぴたっと納まっている。
 
で、相手の中心に気を通すことをテーマに稽古に臨んだのだが、そう簡単に問屋は下ろしてくれない。
合氣道ではうまく結果はでなかった。それは気を通す云々以前に、自分の軸がしっかりと立っていない等々、その手前で足踏みして前へ進めないのだ。
 
だが、剣術では、進歩があったか。
小太刀での切り込み。交点から相手の胸へ気を通し続けることが肝要。途切らせずに最後まで通しきる。通しきれること何度かあり。
改めて整理すれば、急カーブで障碍にめげず最後まで出口を目で追う感覚を思い出せば良いのかもしれない。蛇足なれど、私にしても、また誰かの技を受けていても、途中で諦めて止めてしまうことがままある。受けていて、そのまま続ければ何とかなるかもしれないのにもったいないと思うことがある。
されど、合氣道同様、それ以前で、もたついて頓挫する傾向あり。これはこれで別の話。
 
●上げ手について、何人もの人から教えを受ける。
先生の指導は、本質的。相手の中心と半身の軸を感じて、接点を介して自分の軸をそこに入れていく。以って、相手の軸を崩す。また、身体使いとして、下半身から腰を通して、直接指先を飛ばす感覚だそうな。手取り足取り相手をして貰って、然るべくお膳立てして貰えばやっと、少し感覚がわかる気がする。
 
Sさんの指導は、より技術的に限定された局面のもの。二の腕を硬くせず(力を入れず)に、指先に神経を集中させて、指先だけを上げよという。また、ぶつかった or ぶつかりそうな時は、てほどきのバリエーションの如く、対応に変化をつければ良いという。
そう言えば、それなりにうまくいった時は、腕の筋肉ではなく、腹筋なのか背筋なのか、色々な筋肉を使っていた気がする。
 
●素振りの練習
・軸がぶれてるなーと、今更ながら情けなくなる。いつまでも膝のせいにしていては先へ進めない。
・ONの状態からクラッチの切り繋ぎというイメージは未だし。
・相手の気配を感じる方は、進歩ありか。少なくとも目では見ていない。聞くに近いかもしれない。目で追っていると、目に映ったものに囚われる。と言うか、映像を一々脳に送ってそこで判断して、それから動き出すのでは時間が掛かり過ぎる。見つつ見ないで、耳を澄ます、現段階ではそんな感じ。